名も無き英雄


 偉大な功績を残した歴史上の人物は数多く語り継がれているが、その存在は書物や言い伝えの中でしか確認することができず、本当にその人物はそんな功績を残したのか、はたまたその人物は存在したのかさえ、自分の力で確かめる方法は無い。
 戦争に勝った国がどのようにして勝ったかは、勝って生き残った国にしか語ることができないし、勝ちを納めたその戦法が、実は卑劣極まり無いものだったとしても、それを公表しなければその事実は永遠に闇の中だ。
 他人の発明を横取りし、本当の発案者を亡きものにして名を残した発明家もいたかもしれない。
 もちろん、人類の歴史が全てそうだなんてことは言わないが、少なからずそう言った側面もあるだろうことは、人間という生物の卑しさ、汚らしさが見えてくる歳になれば、自然と疑わしく感じてくる。
 だから、今世界で一番大きな勢力を持つ「リキスト教」の教祖である人物が、千年もの昔、神の血を引く勇者とともに邪神を封印した。なんて教典の文句を、信仰心の薄い俺はそのまま鵜呑みにしたりはしない。が、そのリキスト教の聖地へ繋がる関所の門番という仕事柄、そういう信仰心の弱さを表に出したりもしない。そのくらいは空気の読める大人になったってことだ。
 しかし、最近、長らく続いたそんな平和な日々に陰を落とす噂が流れている。リキスト教に、邪神の封印が弱まっていることを告げる予言が出たらしいのだ。
 一部の教会関係者や、各国の国王といった限られた人間にしかそれは知らされなかったのだが、それを聞いた国王達がこぞって邪神の討伐令を出したことで、この噂はあっと言う間に民衆に広がることとなった。


 ある日のことだった。この関所の下っ端が、見張り台から降りてきて言った。
「親方! また勇者御一行の到着のようですぜ!」
「またか。収穫祭が終わってから何組目だ?」
 辿り着いた一団は、重厚な甲冑に身を包んだ男四人組の一団だった。その呼吸の荒さから疲弊の具合が見て取れる。無理もない。この関所へと辿り着く為には、道としての体裁が何とか整っているという程度の山道を、半日もかけて登ってこないといけないのだ。屈強な戦士と言えど、重たい甲冑を背負っていては辿り着くのがやっとというところだろう。
「我々は、ラミナ国王の命により、邪神討伐の為に旅をしている者だ。この先にあるリキスト教会の聖地へ向かうため、ここを通してもらいたい」
 聞き飽きた台詞だ。
「そいつはご苦労さん。しかし、簡単に通してしまっては関所の意味がないからな。お前さん達がリキスト教会を狙う連中ではないという証明を何か持っているのかい?」
 これも言い飽きた台詞だった。
「我々はラミナ国王の命を受けている。これがその証明書だ。貴様のような関所の門番風情と悠長に話している暇はない。さっさとここを通せ」
 そう言うと、一団のリーダーらしき男が懐から丸めた羊皮紙を取り出し、それを開いてこちらに見せた。確かにラミナ国王の署名と、国の紋章をかたどった印がされていた。
「なるほど。しかしまぁ、それが本物だという証明はできないな。それに、最近は各国の王が出した討伐令のせいでよこしまな連中が増えてね。教会の関係者以外は通すなと言われてるんだ。申し訳ないが、出直してもらえるかい?」
「なっ……!」
 リーダーらしき男の顔に激昂の色が走るのと、
「ふざけるな! この山道を引き返せだと!? これからは日も暮れる時間帯、魔物に襲われて死ねとでも言うのか!?」
 と、別の男が声を上げるのはほぼ同時だった。
「この森にいる程度の魔物にやられるような連中が、どうして邪神を討伐できるんだい? それとも、力ずくで通ってみるかい? それができるような連中ならここを通しても良いとも言われているが?」
 これは嘘だったが、大概の連中はこれで帰っていく。険しい山道を半日もかけて登ってきた後に、屈強な関所の番人の大男達と一戦交える程の体力が残っていないのは当たり前だ。その一団も、やはり聞き飽きた捨て台詞を残して去っていった。


 最近、こういう連中が増えた。
 魔物討伐をして名を上げようなんていう荒くれ者は、いつの時代も掃いて捨てる程いるものだ。
 しかし、魔物なんて言っても、今は猛獣に毛が生えた程度のものしか見かけられないし、物語に登場するドラゴンのような伝説の魔物は、俺が生まれるよりもずっとずっと昔に退治されたとかで、今となっては本当にそんな存在がいたのかどうかも怪しい。国と国が覇権を争って人間同士で戦争を起こすようなこの時代に、邪神だの勇者だのは既に時代遅れなのだ。
 そういえば、その邪神を封印したという伝説の英雄の子孫が、その力を目覚めさせつつあるという予言もあり、自分こそがその勇者であると名乗り出る者も後を絶たない。
 挙げ句、各国の王が我先にと、『邪神を討伐した者には英雄の称号と、貴族としての地位を与える』などという伝令を出したから始末に負えない。存在するのかどうかも分からない邪神の討伐令を出し、あわよくば邪神を討伐した国として世界を制するつもりなのだろう。もはや邪神すらも、国と国との政治の道具でしかないのだ。
 リキスト教会もまた、邪神討伐の為の聖具を求める自称勇者達の標的にされていた。


 数日後、また別の一団が訪れた。が、見張りの話だと今までの連中とは少し様子が違うらしい。
 関所の入り口で待ちかまえていると、しばらくしてその一団がこちらに歩いてくるのが見えた。
 軽装の少年二人と、甲冑に身を包んだ大柄な男、それに目も眩むような白馬に乗り、全身を覆う薄茶色のローブを目深に被った少女。
 今までの連中と明らかに違ったのは、その一団が談笑しながらやってきたことだ。どんな連中であれ、この山道を登ってくれば疲労の色は隠せないものだが、その一団は寺小屋の休み時間を過ごす友達同士の様に、ワイワイと楽しそうに話しながら歩いてきたのだ。
 一団がこちらの姿を確認すると、真ん中を歩いていた少年が緩んでいた表情を締め、しかし爽やかな微笑みは絶やさず、話しかけてきた。
「こんにちは。僕はアイルと申します。こいつはフィル。そっちのでっかいのがベアトリクスで、馬に乗ってるのはミスティです」
「あぁ、こんにちは。礼儀正しい客人は歓迎するぞ。今日はこの関所に何の用事かな?」
 関所でわざわざ名を名乗る旅人は最近少なくなった。名を名乗ることすらできないような連中が増えたと言うべきか。久しぶりに訪れたまともな客人に、分かりきった質問を投げかけてみた。関所に用事など、そういくつもあるものではない。
「えぇ、実はこの先のリキスト教の聖地へ、あのミスティを送っていく途中でして」
 アイルと名乗った少年は、手のひらでひらりと、少し離れた場所で白馬に乗った少女を指した。ローブを目深に被り、口元しか見えない少女が、その口元を少し緩め頭を下げた。ローブの隙間から鮮やかな金髪がさらりと覗く。
「そちらのお嬢さん、教会関係者か何かなのかな?」
「そんなところです」
「なるほど。しかし、そんな言葉だけを信用して旅人を通していては関所の意味がない。何かその話を信用させる物は持っているのかね?」
「ま、そりゃそうだわな」
 口を挟んだのは、フィルと紹介された少年だった。アイルと言う少年が顔つきから真面目さがにじみ出ているのに比べると、こちらの少年は随分と軽薄な印象を受けた。
「証拠。ですか。少し待ってもらっていいですか?」
 そう言うと、アイルと名乗った少年は、少女を乗せた白馬に駆け寄り、馬に背負わせていた荷物をあさりだした。
「おっさんの噂、ふもとの街で聞いてきたぜ」
 荷物あさりをする少年を待つ間、フィルと紹介された少年が話しかけてきた。
「そうかい。どうせロクな噂じゃないんだろう?」
「かかか、そうだな。追い返された連中が散々悪態をついてたぜ。疲れている旅人に力ずくは卑怯だとかな。ま、遠吠えってやつさ」
 つり目気味の目を細くして、少年は愉快そうに笑った。
「職務を全うしているだけさ」
「もっともだね。あんな脳ミソまで筋肉みたいな連中の相手をいちいちしてたらキリがない。それに、あの程度の連中じゃ登山の疲れがなくてもあんた等にゃかなわないだろうしな。かかか」
 この少年、軽薄な態度と物言いだが、喋り方から頭が悪い印象は受けない。単なるバカではないようだ。
「お待たせしました。これでいかがでしょうか?」
 荷物あさりを終えた少年が戻ってきて、片手に握られたペンダントを見せた。リキスト教会の紋章が刻まれた台座に、青がかった透明な石がはめられているペンダントだった。
「ほぅ」
 これは、教会関係者でもかなり高い地位にある者にしか持つことが許されない、特別な物だ。一般の人間ではその存在すら知らないような品物で、それ故に、偽物も多く出回り教会関係者を困らせていた。しかし、偽物と本物を区別する決定的な方法もまた存在していた。
「申し訳ないが、君のような旅の少年がこれの本物を持っているとは考えづらい。これを本物だと証明できるかね?」
「え」
 そう言うと、少年は少し困った顔になってしまった。すると、脇にいたつり目の少年が
「ミスティなら何か知ってるんじゃねぇか? おい! ミスティ!」
と、馬上の少女を呼んだ。
 呼ばれた少女は、一度こちらへ顔を向け、側にいた大柄な男の方を向き直し、小さく何か呟いた。すると、大柄な男が丸太のような両腕でひょいと少女を馬から降ろした。
 そのまま静かにこちらまで歩いてきたところで、フィルが問いかける。
「これが本物だって証明しろってんだけど、何かお前らしか知らない方法があるんじゃねーか?」
「あぁ、そういうこと。ちょっと貸して」
 ローブを目深にかぶったまま、意外にもはっきりとした口調で少女が応えた。その風貌から、人見知りで物静かな少女かと思っていたのだが、そうではなかったようだ。
 少女はペンダントを受け取ると、嵌められた青い石を掴んだまま両方の手の平を重ねて上に向け、手を開いた状態からほんの少しだけ指を曲げ、小さく何かを呟いた。
 その瞬間、ペンダントに嵌められた青がかった水晶がまばゆいエメラルドグリーンに輝き、その場に居た全員が顔を背けてしまう程の閃光を放った。
 間違いない。本物だった。
 このペンダントは、持つ者の心の力により輝きが増減すると聞くが、何年も前に教会の聖地に行った時に見かけた、聖十老と呼ばれる高僧が見せた輝きよりも、この小柄な少女が今見せた輝きの方が明らかに強かった。この少女は一体……?
「うお! なんだこりゃ! ミスティ! お前先に言えよ!」
 フィルが悪態をつく。
「いや、水晶が光ったことに驚けよ」
 アイルが間髪入れず突っ込みを入れる。少女が呟くのをやめると、数秒後にはペンダントは元の青色に戻っていた。
「ちげぇねぇや」
 少年達は顔を見合わすと、わはははと笑いだした。今の現象を見るのは初めての様だったが、動じている様子は全くなかった。
「これで良いでしょうか?」
 少年達が笑っているのを尻目に、少女が話しかけてきた。ローブの奥から覗いた顔は、長いまっすぐな金髪で左目を隠し、こちらを見上げる右目は茶色の瞳。芯の強さを伺わせつつも柔らかな優しさをその表情に宿していた。
 少女の言葉に、あぁ、そうだった。と、少年達も向き直る。
「あ、あぁ。間違いない。本物だな。そして君が、君達がただ者でないということも分かった」
 アイルという少年が安堵の表情になる。
「では、ここを通していただいてもよろしいですか?」
「あぁ、その子、ミスティと言ったかな。その子が教会関係者であることは間違いないようだしな。しかし、もうすぐ日が暮れる。聖地まではさらに半日はかかってしまうし、どうかな、今夜はここに泊まって、明朝出発してみては」
 この関所は建物が数棟から成る集落程度の規模があり、聖地への招かれざる客を選別する目的と、長い聖地への道のりの休憩施設も兼ねていた。
「お言葉は嬉しいのですが、僕達がここに留まることでご迷惑をおかけしてはいけませんので……」
 アイルが、遠慮がちに応えた。
「ここは元々そういう目的の場所でもあるからな、君達がいて迷惑なことなんて何もないぞ。遠慮は必要ない」
「いえ、そういう意味では無くてですね。あ、僕達、早く目的地に到着したいもので」
 と、いやに強く遠慮してきた。
「そうか、しかし女の子連れで夜道はあまりお勧めできないな」
「いーじゃん、お言葉に甘えようぜ?」
 フィルが横やりをいれる。
「うむ。教会への大切なお客さんに夜道で何かあっては我々も申し訳が立たない。」
「そうですか……ミスティは?」
「私はどちらでも。でも、夜道は確かに少し嫌ね。ここは教会にも近いから大丈夫だと思うし、一応、後で念は入れておくから」
「そっか。……では、お世話になってもいいですか?」
「うむ。そうするといい」
 話がまとまった。そう言えば、この一団のもう一人、大柄な男は意見を聞かれなかったな。最初から一言も話さず、ただ仏頂面で腕を組んで立っているだけだった。そういう立ち位置なのだろうか。

 日が暮れ始め、空が赤みがかった頃には、俺はすっかり二人の少年と意気投合していた。
 アイルは、このリーダー無き一団のまとめ役で、「しいて言うならリーダー」とフィルに言われていた。第一印象は礼儀正しい好青年と言う感じだったが、話慣れてみると、よく笑い、適度に喋り、おもしろい受け答えができ、しかし言葉遣いは崩しきらない、どこまでも好印象な少年だった。
 フィルは、言葉遣いの悪い軽薄な少年という印象だったが、まぁ、そのままのよく喋る少年だった。ただ、話していると分かるが、実は相当賢く、頭の回転が素晴らしく早いようだった。
 二人の少年と話し込んでいると、荷物の整理を終えたのか、ミスティと呼ばれていた少女と、大柄な男、確かベアトリクスと呼ばれていた男がこちらへやってきた。
「アイル、結界を張っておこうと思うんだけど。いいかしら?」
「あぁ、そうだね。そうしたほうがいいな」
 結界? 聞き慣れない言葉に怪訝な顔をしていると、アイルは立ち上がり、腰に差していた小さなナイフを取り出すと、何の躊躇いもなく、自分の指先を切った。
「なっ……」
 驚愕の声を上げる俺を尻目に、そのままアイルは、自身の指先から滴る血をミスティが差し出した小さな器に数滴落とす。
「ありがと」
 ローブで隠れて分からない表情でミスティはそう言うと、血が流れるアイルの指を、空いている方の手で軽く握り、小さく何かを唱えた。
「じゃ、張ってくるわね。ベア、行きましょう」
「よろしく頼む」
 自分の指をナイフで切って、その血を器に落とすという異常な行為をしておきながら、まるで何事も無かった様に彼らの会話は終わった。
「お、おい……」
「あぁ、すいません。今夜泊めていただくということで、結界を張っておこうかと」
「結界って何のことだ? いや、それよりもその指、平気なのか?」
 大丈夫ですよ。とアイルが切った指先を見せると、既に血は止まり、かさぶたになりかかっていた。あり得ない光景だった。
「君達は一体何者なんだ……?」
「ただの旅の一団だよ。かかか」
 フィルが笑って言った。続けて、
「念には念を入れて。です」
 と、アイルが続けた。そこに、不意に、
「親方、客人のために酒を仕入れてこようかと思うんですが!」
 と、関所の使いっ走りが声を掛けた。
「そりゃいいな!」
 異様な光景を見せられて困惑する俺を尻目に、フィルが飛び上がって応えた。客人と宴会か。悪くない。
「お、何だ、フィル君、いけるクチかい?」
「何だよ水臭ぇな親方、フィルでいいよ」
 フィルのその返事に俺の顔はにやけてしまった。
「よし! 気に入った! フィル、今日は飲み比べるか! アイル君はどうだ?」
「アイルでいいですよ。お付き合いします。でも、今から街に行かれるんですか?」
「大丈夫ですよ客人。ここで一番速い馬を使いますから。日が暮れきる頃には戻ってこれます」
「そうですか、でも、帰りは道に迷わないように、いえ、『通り過ぎないように』気を付けてくださいね」
「大丈夫ですって客人、俺たちが何回ここと街を往復してると思ってるんですかい」
 使いっ走りが笑って応える。じゃぁ行ってきますと言いかけたところで、アイルが引き止めた。
「ごちそうになってばかりでは悪いですから、これを持っていってください」
 と、懐から取り出した袋から金貨を一枚取り出した。それを見て使いっ走りが飛び上がる。それを持って街に行けば、この関所の人間全員が酔いつぶれてもまだ余る程の酒と食べ物が買えるはずだ。
「い、いいんですかい?」
「いいんですかい? じゃねぇだろバカ野郎」
 うろたえる使いっ走りを一喝する。
「アイル、気を使わないでいいんだぞ。これからの旅にそれは必要だろう。仕舞っておけ」
「いえ、親方、ここはみなさん気持ちのいい方ばかりです。何かさせてください」
「だから、お前達は客なんだからいいんだよ」
「客ならば、受けた施しに対して対価をお支払いしなければいけませんよね。それに」
「男が一度出した物を引っ込めさせる気かい?」
 フィルが合いの手を入れる。俺は、顔がほころんでいくのを我慢できなかった。
「わっはっはっは! 気に入ったぜ生意気な少年達! 今日は宴会だ!」
 俺は懐から自腹の金貨を取り出し、アイルから金貨を受け取った使いっ走りにさらに握らせた。
「これで最高の酒と最高の食い物を買えるだけ買ってきな! 全員で飲んだくれるぞ!」
 俺が関所中に聞こえるように大声で叫ぶと、至る所から歓喜の声が聞こえた。正直、自腹の金貨は安いものではなかったが、今日という最高の夜の為なら惜しくも何ともない。そう思えた。

「すいやせん親方! 今戻りました!」
 使いっ走りが戻ってきたのは、完全に日が暮れて一刻以上も経った後だった。
「おかしいんですよ、なんべんも往復したことのある道なのに、何回も通り過ぎちまって」
「バカ言ってんじゃねぇよ。酔っぱらってんのか?」
 俺が使いっ走りを小突いていると、少し離れた所で話をしていたフィルとミスティがくすくすと笑っていた。
「まぁいい、それじゃあ始めるか!」
 俺の号令を合図に、アイル達四人と関所に詰めている人間十数人の宴会が始まった。
 この関所は、一定日数ごとに詰めている人間が交代する形をとっているので、門番の他にも、食事等の家事をする女(大体が門番の妻だが)や、雑用をする使いっ走り等、十数人が生活を共にしている小さな集落のようになっている。
 全員集まっての宴会なんてそうあるものではないが、今日は特別ということで、見張り台に二人だけ残して皆で楽しく飲むことになった。
 宴会の最中、俺はアイルを捕まえて旅の話しを聞いていた。ある日、フィルと釣りに出ている間に村が魔物に襲われ全滅していたこと、街で面倒事に巻き込まれていたミスティを助けたこと、旅の途中何回か魔物に襲われたこと等、彼等は若さのわりに多くの修羅場をくぐり抜けてきたらしかった。
 それから、『結界』についても話を聞いた。ミスティが使えるおまじないのようなもので、結界を張った一帯の存在感を希薄にすることができるらしい。
 「背が低いわけじゃないのに目立たない人とか、大きすぎて逆に目立たない目印とかあるじゃないですか。ああいう状態を意図的に作れると思ってもらえれば間違いないと思います」
 とはアイルの弁だ。使いっ走りが何度も通り過ぎてしまったのもそのせいだと言うが、どうしてそんなことができるのか、どうしてそれにアイルの血が必要なのかはうまくはぐらかされてしまった。
 しばらくして、信仰熱心な夫婦と若者数人がミスティと話をしているのが聞こえた。聖地へ続く関所とは言え、教会関係者の話を直接こんな間近で聞ける機会などそうそうない。
 ミスティは、信仰熱心過ぎるが故に止まらないその数人との会話に、嫌な顔一つせずに丁寧に答えていた。相変わらずフードを目深に被っているせいで、口元しか表情は分からない。それに、フィルがすぐ脇で関所の下っ端を何人も酔い潰しているのとは対照的に、食事にも酒にもあまり手を付けてはいないようだった。
 ふと、食事を運んでいた女がミスティに軽くぶつかってしまい、その拍子にミスティのフードが外れてしまった。はらりと長く美しい金髪が降り、少し驚いた表情の、幼さを残しながらも端整な顔があらわにされる。思わず目を奪われてしまったのは、その顔の美しさではなく、前髪で隠していた左目だった。茶色の右目に対して、左目は鮮やかなエメラルドグリーンだったのだ。
 その瞬間、ミスティと話をしていた数人が飛び上がるように立ち上がると、その勢いで倒れた椅子に目もくれず、土下座をするように床に突っ伏した。
「や、やめて下さい」
 と、困惑気味に言うミスティ。
 リキスト教の教祖から続く直系の血筋には、何代かに一人、片眼が緑色で生まれてくる赤子がいるそうだ。その子供は強大な力を秘め、神の化身、教祖の再来として、リキスト教の最高司祭に即位することが決まっている。当然、民衆の目に触れるような所に現れることはまずない。確か、十数年前にそんな子供が産まれたと聞いたことがある。聖名は『ミストリアス・レ・リキスト』……。まさか。
「隠しておこうと思ったんですが」
 ミスティが少しいたずらっぽく笑う。こんな表情をする少女がリキスト教の最高司祭……?ミスティは立ち上がると、床に突っ伏している数人に声をかける。既に、関所の人間はほとんどが床にひれ伏していた。
「あの、どうかお顔を上げてください」
「ミストリアス様とは知らず、同じ高さでお話をするなどと、大変な無礼をお許しください!」
 ミスティの懇願も聞かず、突っ伏している奴らは許しを乞うばかりだった。ミスティは少し困った顔をすると、すぐに柔らかな表情になり、
「それでは、こうしましょう」
 と、土や、こぼれた食べ物や酒で汚れた床に腰を降ろした。それを見た数人が大慌てで言う。
「この様な汚い床にお掛けになるなんて、お止めください!」
「私は」
 ミスティが、静かながらもハッキリとした口調で言った。慌てていた数人が思わず押し黙る。
「私は、そんなに立派な聖職者ではないんです」
 周囲の人間が『ご謙遜を』という表情をする中、フィルが横槍を入れた。
「修行が辛くて逃げるくらいだからな。かかか」
「ばっ、ちがっ……」
 慌てるミスティ。一同が『え?』という顔になった。アイルが追い討ちをかける。
「それに、『見るからに』な奴隷商に着いて行っちゃうくらいだしね」
「えええ?」
 何人かが思わず声に出してしまっていた。ミスティが顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
「どういうことだ?」
 俺が聞くと、フィルが答えた。
「どうもこうもそのまんまさ。箱入りで世間知らずだった良家のお嬢ちゃんが、決め付けられた自分の運命がイヤで、巡礼の途中で逃げ出した挙句に奴隷商に売られそうになってた所を、俺とアイルが助けて、お家まで送ってってる最中ってこと」
「そ、そんな言い方すること、ないじゃない……本当……だけど……」
 最後の方はもう聞き取れなかった。ひれ伏していた連中が目を丸くしている。
「だから、そんな、床に伏したりしないでください。どうしてもと言うなら、私も皆さんと同じ高さでお喋りさせてください」
「プッ……、わはははははは!!」
 俺は思わず吹き出してしまった。リキスト教の頂点に立つべきお方が、修行がイヤで逃げ出すだなんて、奴隷商に売られそうになるなんて、一歩間違えば大変なことだが笑わずに居られなかった。
「良いよ、最高だよお前ら! それは大変な旅だったろうな! 今日は忘れて飲もう! アイルも、フィルも……って、お前は既に飲みすぎだろ! わはは! そっちで静かに飲んでるベアトリクスも来い! ミスティも、今日は立場を忘れて飲もう!」
「いえ、私は」
 ミスティが一瞬間を置いて言った。
「酔って奴隷商に売られてしまいそうになったことがあるので」
 その一言で、全員が笑った。笑いながら泣いてる奴もいた。天上人だった人に会えただけでなく、お高く留まっていると思い込んでいた、自らの信仰の対象とも言える人物がこんなにも親しみやすい人で、嬉しかったり印象が壊れたりと、それぞれ複雑な思いがあるのだろう。
 ただ、皆笑っていた。
 こうして、楽しい夜は更けていった。

 やがて、酔い潰れたり、早朝から見張りの仕事があったりする人間が、一人、また一人と各々の寝室へと戻って行き、楽しい宴は終わりを迎えた。
 俺は、アイル達に寝室を人数分用意してやると、挨拶をして自分の部屋へ戻った。こんなに楽しい夜は何年ぶりだっただろう。明日の朝は彼らを気持ち良く見送ってやろうと思う。再会した時に、また酒を飲む約束を取り付けなければいけないな。
 そんなことを考えているうちに、俺は眠りへと落ちていた。

 深夜、外に響いた轟音で目を覚ました。
 慌ててベッドの脇に置いてあった剣を携えて外に出ると、そこで信じられないものを見た。
 物置として使っていた木造の家屋が一棟、完全に大破しており、その脇には、岩石の様な鱗に覆われ、鋭い刃のごとき爪を持ち、雄大な翼を携え、体を起こせば頭が二階建ての屋根に届くであろう、巨大なドラゴンが居座っていた。
 ドラゴンがこちらに気付き、顔を向ける。頭だけで大人の男くらいあるであろうトカゲのような顔から伸びる首の付け根部分の背中には、裸の女の上半身部分だけが『生えて』いた。胸を張るように後ろに広げた両腕は、手首からやや上あたりでドラゴンの背中と同化しており、その腕のすぐ後ろから禍々しい角が左右それぞれ二本生えていて、さらにその脇から翼が生えている。あたかも貴族が趣味の悪い椅子に鎮座しているようにも見えた。ドラゴンの背中の女は、のけぞっていた上半身を起こし、その顔を見せた。ドラゴンの真っ黒な鱗とは対照的にウェイブのかかった鮮やかな金髪をなびかせ、まるで妖精のように美しいその顔でこちらを見下ろす。
「今夜、ここに子供が数人訪れているであろう」
 その声を聞いただけで、騒ぎを聞きつけて外に出てきていた男達が何人か腰を抜かした。ドラゴンの背中の女が発したその声は、妖艶な女の声の他に、明らかにこの世の者ではない、低く擦れたおぞましい声が重なって聞こえるのだ。
「その者たちを引き渡せ。さすればぬしらの命までは奪わん」
 ドラゴン女がそう続ける。腰を抜かさずに済んでいた門番の一人が、声を振り絞る。
「そ、そんな者達は来ていない。勘違いでは」
 そこまで言って、男の上半身が消し飛んだ。ドラゴンがその腕でなぎ払ったのだ。
「ウワーーー!!」
「キャーーー!!」
 下半身だけとなった門番の肉片が飛び散り、周囲にいた者達が悲鳴を上げ、逃げ惑う者、気を失う者等、辺りは一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
 ドラゴン女の表情が露骨に不機嫌になると、ドラゴンが大きく息を吸い込み、炎を吐いた。逃げようとしていた数人がその炎に巻かれて蒸発する。巻き込まれた家屋が炎上する。とても現実の出来事には思えなかった。続けてドラゴン女が声を荒げる。
「黙れ!」
 ドラゴン女が発した、地獄の底から響いてくるような凶兆を孕んだその怒号は、周囲で泣き喚いていた者たちを黙らせ、その行動を止めるのに十分だった。皆、動けないまま恐怖に顔を引きつらせ、その場にへたり込むしかできなくなっていた。
「人の子よ、今一度言う。返答を間違えれば、ここにいる全員が夜明けを迎えられないと知れ」
 ドラゴン女が無表情に俺を見据えて言う。ここに居る者たちの頭が誰であるか既に見抜いているようだった。
「ここに来ている子供達を引き渡せ」
「か、彼等に何の用だ」
 俺の答えに、無表情だったドラゴン女の顔に少しだけ不機嫌の色が出たかと思うと、ドラゴンが大きく息を吸い込んだ。また炎がくる!
 その時、ドラゴンの頭部に何かが落ちてきた。不意を突かれたドラゴンは、炎を吐こうと開いていた口を上から強引に閉じられ、前膝を付く。ドラゴンに落ちてきたそれは、そのまま俺のすぐ脇まで飛んできた。
「お、お前は」
 それは、アイル一団の無口な大男、ベアトリクスだった。ベアトリクスがどこかから飛び降りてきて、持っていたハンマーでドラゴンに一撃を加えたのだ。
 ベアトリクスは、ドラゴンが体制を立て直そうとしているのを確認すると、人とは思えない声で吠えた。途端、ベアトリクスの体が膨れ上がり、ざわざわと黒い体毛が体を覆い出したかと思うと、数秒で元の身長から1.5倍はある熊に変わっていた。もう、何が起きているのか理解ができなかった。
「裏切り者の人獣か!」
 体制を立て直したドラゴン女がベアトリクスに吐き捨てる。と同時に、前足でベアトリクスを踏みつけた。ベアトリクスがそれを頭上で受け止めると、地面が衝撃で陥没する。ベアトリクスは受け止めた前足を横に払うと、そのままドラゴンの側面へと回りこんだ。ドラゴンもそれを追う。
 ドラゴンの視界から外れ、唖然と立ち尽くす俺の脇にすばやく並ぶ気配があった。ハッと目をやると、アイルがすぐ側まで来て神妙な面持ちをしていた。
「申し訳ありません」
 アイルは何故か謝ると、腰に差していた剣の柄に手を掛ける。アイルがそれを抜くと同時に剣身から眩い閃光が走る。それに気付いたドラゴンがアイルの方を向き、咆哮を上げた。轟音の重低音がビリビリと体に響く。
「見つけたぞ。我が主に仇をなさんとする者よ」
 ドラゴン女が嬉しそうに言う。
「永き眠りから覚めんとする我が主のために、お前の亡骸を土産とさせてもらう」
 アイルはそれには答えず、小さな声で俺に耳打ちをした。
「僕達があれを引きつけます。親方は、無事な人達と逃げてください」
 そう言うと、素早い動きでベアトリクスの方へ駆け寄る。ドラゴン女が不適な笑みを浮かべたままそれを追う。
「親方! こっちだ!」
 後ろから呼ぶ声に振り返ると、フィルとミスティが少し離れたところで、無事だった者達を介抱していた。俺がドラゴンの攻撃をどうにかわしているアイルとベアトリクスの方を気にしつつ、フィルとミスティの方へ駆け寄ると、ミスティがまだ無傷の小屋を指差す。
「あの建物の中へ。範囲を狭めた、強い結界を張ります。あいつからは見えなくなるはずなので、そこでじっとしていてください」
 そういうと、手際よく残りの者達を小屋へ誘導する。俺も、近くで腰を抜かしていた奴らを抱えて、小屋に入った。
「これからこの建物に魔法を掛けます。この建物だけなら、確実にあいつの意識から外させることができますので、どうかここから出ないでください。間違っても、あいつの気を引くようなことはしないでください」
 ミスティが早口でそう巻くし立てると、小屋から出て行った。窓から外を覗くと、フィルと二人で小屋の周辺に小さな水晶を配置しているようだった。手際よく作業を終えると、ミスティが両手を合わせて祈るような動作をする。すると、先ほど配置していた水晶を頂点とした六芒星が地面に現れ、柔らかな紫色の光が小屋を包んだ。
 結界が張れたのを確認すると、ミスティはどこかへ消えていった。程なくして、フィルが小屋に入ってくる。そうしてる間も、アイルとベアトリクスがドラゴンと交戦しているであろう音はずっと続いていた。
「あいつの目標は俺達だけだ。あいつが居なくなって、夜が明けるくらいまではここにいてくれ」
 そう言い残して出て行こうとしたフィルを、「待て」と引き止めた。
「あれは何なんだ? 何故お前達が狙われる?」
 俺の問いに、フィルは少し困った顔をする。
「親方達には関係ない」
「俺達は仲間を何人も失った。知る権利があるんじゃないのか?」
「……」
 少しの沈黙。
「あいつは、アイルは本物なんだ」
「本物?」
「千年前、邪神を封印した勇者の子孫。神の血を引く末裔なんだ。信じる信じないは勝手だがな」
 その答えに、小屋の中の一同が言葉を失う。今までなら荒唐無稽な思い込みと笑ってしまう話だが、伝説の生き物であるドラゴンに追われ、『我が主に仇をなさんとする者』と呼ばれ、熊に変身する男やリキスト教の最高位の少女を連れている。信じるに足る要素は揃っていた。
「お前達は、いつもあんなのと戦っているのか?」
「あぁ。……いや、いつもはもっと弱そうな雑魚ばかりだった。あんなデカイのは初めてだ」
「勝てる……のか?」
「……」
 また、少しの沈黙。
「勝てないにしても、逃げ切ることはできるさ。あんた達はここに居れば安全なはずだ」
「ふざけないで!」
 突然、小屋の奥から女が一人立ち上がり金切り声を上げた。上半身を消し飛ばされて死んだ門番の妻だった。
「あなた達、自分達があんなものを引き寄せるって分かっていたんでしょ!? どうして主人を、私達を巻き込むようなことをしたのよ!?」
 夫を失った妻の悲痛な叫びだった。フィルは、顔をしかめ、唇をかみ締めると、
「……すまない」
 とだけ絞り出し、逃げるように小屋から出て行った。門番の妻は、大声を上げて泣き崩れる。繰り返し、夫の名を呼び続けていた。
 外ではアイルとベアトリクスが交戦を続けているが、どう見ても防戦が精一杯な様子だった。ミスティとフィルの姿は見えない。まさか先に逃げたと言うわけではないだろうから、どこかで何かの準備をしているのかもしれない。俺はようやく頭も冷えてきて、この非現実的な状況で自分がどう立ち回るべきかを考えていた。
 伝説の勇者の血を引く少年、自分が仕えるリキスト教の最高位司祭である少女、その仲間達。
 フィルとミスティの言葉を信じるなら、俺達はここに居れば安全なのだろう。ミスティの結界というのがどの程度信用できるものなのか分からないが、普段彼らがやりあっていた程度の魔物なら、この集落一帯を覆う結界でも問題が無かったのだろう。それが、今回は予測を遥かに上回る強力な魔物だったために、範囲の広い、効果の薄れた結界では見つかってしまったということだ。この建物に張った結界は、『範囲を狭めた、強い結界』と言っていた。おそらくは魔力を持った品であろう水晶まで使っていたのだから、かなり強力な結界のはずだ。アイルの聖なる血の代わりの水晶ということか。『あいつの気を引くようなことをするな』という言葉からも、こちらから何かすれば気付かれてしまうかもしれないが、おとなしくしていれば大丈夫だということが伺える。
 しかし、あのドラゴンが本当に『予測を遥かに上回る強力な魔物』だったのだとしたら、彼らは無事で済むのだろうか? さっきから防戦一方のようだし、もしも彼らに万が一のことがあったら、勇者の血筋と、リキスト教の最高司祭を同時に失うことになる。リキスト教を守る事が職務である俺の目の前で。
 彼らは既に常人離れした能力を持っているようだが、彼らが居なくなってしまったら、封印が解かれようとしている邪神と誰が戦うのか。
 彼らをこんな所で死なせてはならない。
 そう思った途端、俺は小屋から飛び出していた。そこに、真っ白な馬にまたがったフィルとミスティが現れた。そうか、二人はこの白馬を迎えに行っていたんだな。
「親方! なんで出てきたんだ!?」
 フィルが声を掛ける。
「関所の門番が隠れて震えているわけにもいかないだろう?」
「……親方、すまない。ありがとう」
 そう言うと、フィルは馬から飛び降り、アイルとベアトリクスの方へ駆けて行った。前線から少し離れたところで白馬とミスティと俺が残される形になった。
「俺では戦局が読めない。ミスティ、どうなんだ? 勝算はあるのか?」
「今の私達では、あいつには到底適いません」
 ミスティがはっきりと言い放った。
「ここは退きます。フィルの合図で私があいつの目を眩ませますので、あなたはその隙に結界の中へ戻ってください。私達はそのまま聖地を目指します」
「……そうか。分かった。無事を祈る」
「……」
 少しの沈黙。
「……あなたと、この関所の方々にどうか神の祝福を」
 そう言うと、ミスティは、アイル達の元へ作戦を伝えに行ったフィルからの合図を待った。
「ひとつだけ、いいかい?」
 ミスティは黙ったまま一瞬視線をこちらに送った。返事の代わりと俺は受け止めた。
「君達は、世界を救うために旅をしているのか?」
 少し考えて、ミスティが口を開く。
「今は、違います。でも、おそらくそうなるでしょう。私のこの呪われた左目と力がそれを拒ませないでしょうから」
 ドラゴンと戦う三人から視線をそらさないまま、ミスティは答えた。彼女は、生まれながらに授かった聖なる力を『呪い』と言った。それが、俺にこれ以上質問することをためらわせた。
「そろそろ来ます。私が呪文を唱えたら、目を強く閉じてください」
 フィルがポケットから何かを取り出し、ドラゴンに投げつけると、パァン! と破裂音がした。かんしゃく玉だろうか。おそらくこれが合図なのだろう。ミスティが小さな声で呪文を唱え始めた。俺は言われた通りに目を強く閉じ、さらに腕で両目を覆った。
「光よ!」
 ミスティが叫ぶと、腕で覆われている目でも分かる程、強い光が発せられた。
「グオオオオォォォ!!!」
 ドラゴンが叫ぶ。光はすぐに収まったので、目を開けて辺りを確認する。ドラゴンは目を眩ませてアイル達の姿を確認できずにいるようだ。
「ホリィ!」
 またミスティが声を上げた。すると、ミスティが跨っていた白馬が一声いなないたかと思うと光り輝き、次の瞬間には翼が生えたペガサスへと変わっていた。聖獣まで連れているとは。だんだん驚かなくなっている自分が少し滑稽だった。
「どうかご無事で」
 ミスティがそういい残すと、ペガサスは滑空するようにアイル達の所まで辿り着き、アイルと、いつの間にか人の姿に戻っていたベアトリクスを背中に乗せ、フィルを口に咥え飛び上がった。ドラゴンはまだ目を眩ませている。俺はその隙に小屋の中へ転がりこみ、アイル達はそのまま聖地の方角へ飛び立って行った。
 しばらくすると、ようやく目が慣れたらしいドラゴンが周囲を見渡していた。本当にこの小屋には気が付かないようだ。グルルルル……と唸りながら、左右に首を振っている。アイル達が飛んで逃げたとは思っていないようだ。
 やがて、逃げられた悔しさからか、ドラゴンは四肢を地面に踏ん張ると、首を上に向けて咆哮を上げた。と、ドラゴンが何かに気付いた。斜め上の一点を凝視している。ドラゴンが見ている方へ俺も目をやると、遠くだが確かにうっすらと輝くペガサスの姿が確認できた。アイル達が見つかってしまった。ドラゴンが不適にニヤリと笑い、また四肢を踏ん張ると、翼を広げた。
 そこまで見て、俺は小屋の窓から飛び出していた。
「うおおおおおお!!」
 虚を突かれたドラゴンが、驚いた顔でこちらに振り向く。そのままドラゴンの鼻っ面に剣を振り下ろす。
 が、岩石のようなその皮膚に、剣は折れ、俺は弾き飛ばされてしまった。ドラゴンの背中の女が怒号を上げる。
「どこから現れた人間め! 邪魔をするな!」
 どうやら俺が小屋から出てきたところは見られていないようだ。この様子なら、小屋の中の連中は無事だろう。と思っていると、ドラゴンが前足を振り下ろしてきた。
 すんでのところで避けるが、地面をえぐるその一撃の衝撃で、隠れていた小屋とはまた別の小屋、武器庫の壁へ叩きつけられる。
「虫けらのような人間め、貴様の相手をしている暇などない!」
 そう吐き捨てると、再びドラゴンは地面に踏ん張り、翼を広げる。おそらく飛び立とうとしているのだろう。
 俺はとっさに折れた剣を捨て、武器庫の壁にかけてあった弓矢を手に取ると、力の限り弓を構えた。
「……神よ」
 神に祈ったのは初めてだった。 
「神よ、どうか人々の希望をお救いください」
 そのままドラゴン女に向けて矢を放った。ドラゴンの顔面は硬くて歯が立たなかったが、ドラゴン女の方なら見た目の質感も人間に似てるし、攻撃が効くのではないかと思ったからだ。
 その予想は的中した。矢が空を切る音に気付いたドラゴン女が振り向いた所に、俺の放った矢がその右目に突き刺さったのだ。
「ギャアアアアァァァァ!!」
 おぞましい悲鳴が辺りに響く。
 空へ目をやると、もうアイル達の乗ったペガサスの姿は見えなかった。これなら無事に逃げ切れるだろう。
 ドラゴン女は無造作に矢を引き抜くと、怒りに燃えた表情で俺を睨み付けた。潰れた右目から溢れる血が、その恐ろしさを際立たせていた。
「おのれ人間め、許さんぞオオォォォ!! 我が爪の染みにしてくれる!!!」
 辺りには、俺とドラゴンだけが残された。
 俺はこれから死ぬ。それだけは確信が持てた。しかし、不思議と心は落ち着いていた。俺は役目を果たした。そんな充足感に満たされていた。
 彼らはきっと強く成長し、この世界を救ってくれるだろう。その可能性がここで潰えなくて良かった。今、彼らの身代わりになることで、俺も間接的に世界を救えたのなら、それも悪くない。
 俺は、すぐ側にあった別の剣を構えると、もう一矢報いてやろうとドラゴンと対峙した。
『神の祝福を』
 ミスティの声が聞こえた気がした。
『加護』ではなく『祝福』なのが少しおかしかった。


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