DEA型の染み



「一郎?」
 自分の名前を呼ぶ、聞き慣れた声に俺は目を覚ました。
「起きた?」
 まだ夢と現の境界から抜け出せない俺は、低く唸るような声で返事をする。いつものベッドには、登頂部まであと僅かという位置にいる初冬の太陽が柔らかな日差しを注いでいた。大きく欠伸をする俺を、楽しそうに眺めながら陽子が続ける。
「私はそろそろ出かけるね。今日は少し遅くなっちゃいそうなの。ご飯は用意してあるから、適当に食べてね。」
 了承したのかどうか分からない俺の返事を聞くと、陽子はそそくさと玄関から出ていってしまった。

 陽子と一緒にこの部屋で暮らし始めてから、そろそろ1年経つ。
 就職のために田舎から出てきたばかりだったという当時の陽子は、慣れない都会暮らしへの不安や寂しさからか、俺と一緒に生活する事をすんなり受け入れられたらしい。そういう俺も、随分長いこと一人で生きてきたので、名前の通り底抜けに明るい陽子との日々を楽しんでいた。
 お互いにこれと言って衝突するようなこともなく、俺たちの生活はうまくいっていた。
 そんなことを振り返っていると、日光に暖められた俺の体をまた眠気が襲ってきた。まぁ、特にやることもないし、もう一眠りするか・・・。



 カンカンカンカン・・・!
 遠くの方から響いてくる金属音に俺は目を覚ます。アパートの階段を上る音だ。外はすっかり暗くなっていた。陽子のヒールは、いつも階段に甲高い音を鳴らせる。この音が聞こえると俺は彼女を出迎える準備をするのだが、今日はいつもと明らかに様子が違っていた。足音のテンポが速い。走っているようだった。
 ガチャガチャガチャ・・・!
 玄関の鍵穴がけたたましく悲鳴を上げる。鍵をなかなか開けることができない焦りが、ドア越しでも伝わってきた。陽子は性格こそ明るいが、普段はどちらかというと大人しい。いつもは鍵を開けるのだってもっとスマートだ。何かが起きているということはもはや疑うまでもない。
 俺が玄関まで駆け寄っている間に、ようやく施錠を解く音がしたかと思うと、同時に陽子が家の中に飛び込んできてドアを乱暴に閉めた。
 陽子はすぐさまドアに再び施錠をすると、そのままの体勢で固まってしまった。白いコートの肩が忙しく上下している。結構な距離を走って帰ってきたようだ。
 俺が側に駆け寄る気配に気付くと、陽子は恐怖に怯えた顔で振り向き、俺に抱きついてきた。
「一郎・・・っ!」
 声が震えている。俺は陽子に名前を呼ばれるのは好きだが、今のそれには普段俺を癒してくれる柔らかさは無く、緊張した声色は、ついさっきまでのドアの向こうの陽子の行動と併せて俺の不安を煽った。一体何があったのか聞こうと体を離そうとした俺を、そうさせるまいと陽子は華奢な腕に力を入れる。
「怖かったよ・・・」
 俺を逃がすまいとした彼女を無理に引きはがすこともできないので、俺はそのまますっかり怯えている陽子に頬を寄せた。

「・・・ごめんね。」
 数分の後、ようやく彼女は落ち着きを取り戻し、俺の体を解放した。
 聞くと、帰り道に尾行してくる気配を感じ、考えすぎかと思い歩調を早めてみると、背後の気配も同様に歩調を早めてきて、途中から完全にパニックに陥ってしまい、全力疾走してきたそうだ。
 この部屋へ帰ってくるには、駅前から続く人通りの多い大通りを曲がり、街灯の少ない小道を5分程度歩かないといけない。住宅街ではあるものの、遅い時間には人通りはほとんど無く、若い女が一人で歩くには少し嫌な雰囲気ではある。陽子が気配を感じたのもその道だったそうだ。
 一通り俺に話し終えると、陽子はすっかりいつもの彼女に戻っていた。
「ふ~。これからはあまり遅くならないように気を付けないといけないね。終電帰りとかになっちゃったらタクシー使った方がいいのかな。それにしても、こんなにか弱い女の子の後を付けるなんて許せないわ!次に会ったら警察に付き出してやるんだからね!」
 なにやら明後日の方向を見ながら拳を握っている。さっきまでは怯え切っていたが、この切り替えの早いポジティブさが、彼女の最大の魅力だ。しかし、若い女が身の危険を感じる目に遭って、本当にもう大丈夫なのだろうか。彼女は心配そうな俺の視線に気付くと、こう言った。
「もう本当に大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて。って、あー!一郎!せっかくご飯用意しておいたのに手を付けてないじゃない!」

 俺は視線を逸らした。



 それから数週間経つが、陽子も気を付けているだけあって、また後を付けられるような目には遭っていないようだ。意識して早い時間に帰ってきているようだし、部屋に続く小道に人が少なくなる時間帯になってしまったら、タクシーでアパートの目の前まで付けてもらっているようだった。
 時間が経つにつれその時の恐怖も薄れるようで、たまにその事が話に出るときは、ただの勘違いだったとまで言うようになっていた。

 俺も陽子も、喉元を過ぎて熱さを忘れていたのだろう。



 ひときわ寒い日だった。あの一件の日から2ヶ月近く経ち、春の訪れが待ち遠しい本格的な冬が続いていた。
 その日、陽子は流行のドラマを見ていた。雪の降り積もる夜景の中で迎えたそのラストシーンに、感動屋の陽子は涙を流している。別に興味のない俺が見ても、美しく印象的な映像だった。
 ドラマのスタッフロールが流れ終わると、陽子がふと窓の外を見て声を上げる。
「一郎!見て見て!雪だよ!」
 いつの間にか、窓の外は薄く積もった雪で白く染められていた。さっきまで見ていたドラマのラストシーンと重なったのか、陽子は嬉しそうに窓から外を眺める。
「ねぇねぇ、ちょっと缶コーヒーでも買いに行こうか?」
 悪くない提案だ。確かに外は寒そうだが、シンシンと降り注ぐ雪の中を陽子と歩くのも良さそうだ。俺もさっきまで流れていたドラマに影響されているのだろうか。そう言えば去年の冬は積もるほど雪は降らなかったな。
「ほらほら、一郎、行くよっ。」
 いつの間にか白いコートを羽織っている陽子が声をかける。そのコートを見て、一瞬、あの日のことが俺の脳裏をよぎった。しかし、自動販売機はすぐ近くだし、嬉しそうに雪にはしゃぐ陽子に水を差すのも気が引けた。それに、俺が付いていれば大丈夫だろう。



 ガコン!
 陽子が自販機の取り出し口から缶コーヒーを取り出す。甘ったるいいつものコーヒーだ。
「あったかーい♪」
 缶に頬ずりをしながら、陽子は満面の笑みを浮かべた。陽子は自分でコーヒーを煎れた時でも、砂糖をガンガン入れる。俺は、甘くないコーヒーなんてコーヒーじゃないわ!とよく分からない熱弁をする陽子を思い出していた。
「見て見て、一郎。」
 陽子が夜空に向かって大きく息を吐き出した。暗闇から次々に現れる純白の雪を真っ白な吐息が覆い、夜空に吸い込まれていく。すでに夜は深く、俺達以外に誰もいない。神秘的な光景だった。
「綺麗・・・。だね。」
 雪の白と夜の黒のコントラストに、少しだけ鼻と頬を紅潮させた陽子の横顔が、街灯に照らされ浮かび上がる。・・・綺麗だった。
「陽子さん。」
 突然背後から名前を呼ばれ、陽子の顔が強ばる。同時に俺と陽子が声の方向へ振り返った。
「陽子さん。」
 抑揚のない声が再び陽子を呼ぶ。俺達から10メートル程離れた、街灯の明かりから少し外れた所に男が立っていた。知らない男だ。
 既に男の姿を確認したであろう陽子の様子からも、この男が知らない男であることが伺える。あの日のことを思い出したのか、陽子は恐怖で声が出ない様子だった。
「今日は逃げないんだね。」
「だ・・・、誰・・・?」
 ようやく陽子が、痛々しい程にかすれた声を振り絞る。男はジャンパーに両手を突っ込んだまま、一歩俺達に近付いた。街灯に照らされ、無精髭を生やした男の顔が浮かび上がる。
「誰・・・?」
 男の顔をはっきり確認できる状態になっても、陽子はその男が誰か分からないようだった。
「やっと話せたね。ずっと君の部屋を眺めていたんだ。でもなかなか声を掛けられなくて。」
 男がさらに一歩近づく。陽子の顔がさらに強ばる。恐怖と寒さで後ずさることすらできない様子だった。
「な、何・・・?」
「前は、僕から逃げたりして、酷いじゃないか。でも、今日こうして部屋から出てきてくれたから許してあげるよ。君も僕と話がしたかったんだろう?」
 さらに一歩、男が歩み寄る。陽子はとうとう尻餅を付いてしまった。陽子と、彼女を見下ろす男の間に俺が割って入る。こいつ、俺のことは無視か?言動もおかしい。これ以上陽子に近付けるのはヤバそうだ。睨み付ける俺に、男は不機嫌そうに続けた。
「なんだお前は。俺は陽子さんに話があるんだ。邪魔をするな。じゃ、邪魔をすると・・・」
 男がポケットから右手を出した。街灯の光を受けて、男の手先が光る。その手には、小さなナイフが握られていた。
「ひ・・・」
 自分を傷つけるかもしれない刃物を見せつけられ、陽子が小さな悲鳴を上げる。唇がガクガクと小刻みに震えていた。このバカ、変なもん出しやがって。
「じゃ、邪魔をするな・・・。邪魔をするな・・・。」
 ブツブツと繰り返す男と対面したままの膠着状態が続く。時間にしてみれば十数秒程度だったのかも知れないが、数分、数時間にすら感じた。とにかく陽子を安全な場所に逃がさないといけない。俺が陽子に視線を送ると、陽子は少しだけ我に返り、コートのポケットを探った。
「け、警察を・・・」
「やめろ!」
 男が怒号を上げた。陽子の体が固まる。男が、陽子の片手に握られた携帯電話を取り上げようと飛びかかってきた!マズイ。考えている余裕なんて無かった。俺は男を制止しようと立ちはだかる。


 左肩の付け根に冷たい感覚が走った。


「イヤーーー!一郎ーーー!」

 陽子の悲鳴が闇を引き裂く。
 男は俺の体にナイフを預けたまま手を離し後ずさる。俺の体に走った冷たい感覚は、すぐに溢れ出した赤い液体に暖められ、続いて激痛が襲ってきた。
 俺は、グウ・・・と情けない声を出すと、そのまま倒れ込んだ。と同時に、騒ぎを聞きつけたのかすぐ近くの家の玄関に明かりが付く。
 男はそれに気付くと、その場で少し挙動不審に手足をバタ付かせ、振り返って逃げていった。
「一郎!一郎!」
 陽子が必死に俺に声を掛ける。良かった。無事みたいだ。目には涙をいっぱい溜めている。と思ったら、こぼれ落ちてきて俺の頬に落ちた。暖かい。俺は、同じ暖かい液体でも、俺の体から未だに溢れてくる液体よりこっちの方が全然いいや。などとのんきなことを考えていた。
 陽子の涙に暖められた頬と反対の頬が積もった雪に冷やされ、俺の傷口を中心にその雪に少しずつ色が付いていく。
 少しの間それを眺めていたが、やがて気が遠くなり、視界が暗転した。俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。安らかで優しい声だった。



 目を覚ましたのは慣れないベッドの上だった。いつもと違う固いベッドの周りには、所狭しと見慣れない器具が整然と並べてある。左肩の違和感に気付き目をやると、包帯が巻かれていた。俺以外には誰もいないようだ。
「入院の必要もないでしょう。」
 ドアの向こうから人の良さそうな男性の声が聞こえる。それに答えるように、聞き慣れた声が聞こえた。陽子だ。
 俺は、彼女の側に行こうと、ベッドを降り、声のするドアへ向かった。ケガのせいか少し歩きづらい。ドアへ後数歩というところで、ガチャリとドアが開いた。
「一郎!」
 ドアを開けたのは白衣の初老の男性だった。そのすぐ奥にいた懐かしい顔が泣きそうな笑顔で飛びついてくる。
「良かった・・・!一郎が守ってくれなかったら私・・・!」
 彼女は、俺が怪我をしているのをすっかり忘れているようだった。俺が傷口の痛みに少し唸り声を上げると、陽子は慌てて離れた。すぐにゴメンネと続ける。

 聞くと、俺はあの男に左肩の少し内側をナイフで刺され、そのまま昏倒してしまったらしい。
 男は俺を刺したショックと陽子の悲鳴に驚き、すぐにその場を離れたが、近隣住民の通報で数刻の後に警察に捕らえられたそうだ。銃刀法違反とストーカー防止法がどうとからしいが、陽子もよく分かっていない様子で、よく分かっていない人間からの説明で俺が理解できるはずもない。今後しばらくは警察からの取り調べ等を受けないといけないが、また夜道で襲われるようなことはないと約束してくれたらしい。
 俺の怪我は、見た目の出血程大事ではなく、後遺症が残る心配もないそうだ。
「彼女に何かあったら、また君が守ってやりなさい。」
 夜中に叩き起こされたことも気にしない様子で、初老の医者が俺の肩をばしばし叩きながら笑った。ケガをしているのとは反対側だが、まったく、どいつもこいつも俺が怪我をしてることを忘れているのか?



 陽子が病院の受付と少しやりとりをした後、やっと俺はこの薬臭い空間から解放されることになった。
 病院の外は、雪はすでに止んでいたが、辺り一面は真っ白な化粧を施されていた。
「タクシーは呼べないから、家まで歩いて帰ろっか。もう私の後を付ける人もいないし、もし居てもまた一郎が守ってくれるでしょ?」
 寒さに躊躇している俺を置いて、陽子が数歩先に進みこちらへ振り返る。ひるがえった白いコートの一部に赤い染みがあった。
「さ、一郎。」
 俺の怪我を気遣ってか、陽子が両手を差し出す。これくらいの怪我に大袈裟なヤツだ。俺は、問題ない。と彼女の脇に並んだ。夜の闇に栄える顔が少しだけ不満そうな表情を浮かべたが、すぐにいつもの柔らかな微笑みに戻った。
「じゃ、行こっか。」

 しばらくは慌ただしい日々が続くかもしれないが、やがてまた二人だけの安らかな日々が戻ってくるだろう。

 4本の足のうち、怪我に近い左前足を庇いながら、俺は自慢の尻尾を振りつつ陽子と共に帰路についた。



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