その一筆は伝説へ



 汚名を返上するチャンスだ。

 俺が通う中学校は、田舎故か、授業を半日潰しての写生大会なんていうほのぼのしたイベントが存在する。長い夏休みが終わり、誰も文化を重んじていない文化祭が終わり、やや涼しくなってきた季節に行われるこのイベントは、毎年美術教師しか張り切っていないという悲しい状況だった。が、今年は少し違う。美術教師の他に、もう一人、他でもない俺が張り切っているのだ。

 2年半も使い古して、渾身の力を込めないとチューブから出てこない絵の具や、水を付けるだけで何故か色が出てくる不思議な筆では、良い作品は生み出せるはずもない。
 俺は写生大会の前日にわざわざ文房具屋に出向き、絵の具を一式買ってきていた。

 写生大会に向けてこんなに気合いを入れている俺だが、別に絵が好きというわけでもない。
 むしろ、どれだけ愛情を注いでも一向に俺の気持ちに応えてくれないこの高めの女に、俺は嫌悪感すら覚えていた。
 俺がこの女に見向きもされていないことは周知の事実で、しかし熱心にアプローチをかけていることもまた同様で、おかげで俺の通知票の「芸術」に「1」がついたことはない。これはきっと美術教師からの励ましなんだろう。



 普段、写生大会なんてダルいと言う筆頭のような俺が、今回、こんなに盛り上がっているのにはこんな経緯がある。

 先日行われた文化祭で、我がクラスはお化け屋敷をやることになり、俺のグループは死神のオブジェを作ることになった。お化け屋敷と我が校の文化がどう繋がっているのかは俺には分からないが、困ったことに俺はジャンケンで負けて死神作成グループのリーダーになってしまったのだ。


「んで、死神ってどんなデザインにしたらいいんだろうな」
 最初のミーティングは、俺のこんな一言から始まった。
「死神って言っても、色々あると思うの。ほら、口が裂けててリンゴが好きなタイプとか、メスの死神のくせに女の子を好きになっちゃうタイプとか」
 マンガ好きな山野留美子が率先して意見を出してきた。クラス委員を勤める彼女は、責任感が強く面倒見も良い。俺の親と彼女の親が仲が良いため、小学生の頃、彼女の家にお邪魔したときに部屋の中を見たことがあるが、壁一面を聞いたことのない色々なマンガが埋め尽くしていた。マンガ好きということはクラスのほとんどが知っているが、あそこまでと知るクラスメイトはなかなかいないだろう。
「そんな複雑なデザインじゃなくて、よくあるタイプでいいんじゃないか?」
 そう続けたのは橋本孝。俺が一番仲良くしている友人だ。余り素行が良くないので教師からは要注意人物扱いされているが、同級生からの人望はどちらかと言うと厚い。基本的には面倒くさがりだが、イベント事には盛り上がるタイプだ。
「また橋本君はそういうこと言って。森田君はどう思うの?」
 山野が俺に意見を求めてきた。
「山野さんが好きなマンガを参考にするのはいいけど、実際にそれを作るとなると難しいかもだね」
 俺のもっともな意見に、山野は「そうかなぁ」とボヤく。彼女は絵もうまく、美術の成績も常に「5」だ。彼女が何人もいれば彼女の思い描く死神を作ることができるかもしれないが、グループの他のメンバーにその技術力を期待するのは酷だ。
「……私も普通で良いと思う」
 俺達があーだこーだと話をしていると、井上由美がボソッと口を開いた。普段無口な彼女は、やはりこの場でも無口だ。いつも本を読んでいるメガネをかけた優等生という、あまりにベタなキャラクターの彼女の発言は、何故かいつも場の決定権を持つ。彼女と仲の良い山野も、その静かな説得力に納得したようだった。
「じゃぁ、普通の死神ってどんなよ」
 山野が少しむくれた顔で俺に聞く。なんで俺に聞くんだ。
「だって、リーダーでしょ?」
 半ば強引にやらされているリーダーになにを求めようと言うのか。
「死神って言ったらガイコツに鎌だろ?」
 橋本が割って入る。まぁ、それがポピュラーな死神のイメージだな。
「まぁ、そんなところよね」
 山野が相槌を打ち、ニヤリとほくそ笑むとそのまま続けた。
「ちょっと書いてみてよ。実際に作る死神のラフ画」
「はぁ?」
 思わず俺は硬直する。小学生の頃からの腐れ縁で、俺の画力を知らないはずはあるまい。
「なんでだよ。絵上手いんだから山野さんが書いてよ」
「見たいな。死神。お前の書いた」
 おい橋本。倒置法で何言ってんだ。何言ってんだ倒置法で。
「……書いて」
 俺が脳内で橋本を責めていると、井上がノートとシャーペンを俺の前に静かに差し出した。お前までもか。
「由美も言ってるのよ。ほら書いてみてよ」
 山野が井上をダシにしてきた。井上はじっと真っ直ぐに俺から視線を反らさない。なるほど、この眼光は人に有無を言わせない力がある。……仕方ない。おそらくこいつらは俺の書いた絵を見て笑ってやろうという魂胆なんだな。よーしいいだろう、上手く書くことはできないまでも、笑わせない程度のものは書いてやる。
 俺は差し出されたノートにシャーペンを走らせた。


「あの、森田君……?」
 俺の力作が完成に差し掛かった頃、山野が声をかける。何だ。
「あの、ゴメンね……。私が描くから」
「え?」
 俺がノートから顔を上げると、3人が神妙な面持ちでこちらを見ていた。井上はいつもと変わらない無表情だが。
「何でだよ? もうすぐ描き上が」
「森田」
 橋本が俺の肩をポンと叩いた。慈悲に満ちた微笑みで続ける。
「もういい。お前はよくやった。お前は……、そう、お前は勝ったんだ」
 お前は何を言っているんだ。
「ね? 森田君は、イメージを、言葉で伝えてくれれば、いいから」
 山野が俺からノートを引ったくると、歯切れの悪い言葉とは裏腹にスラスラと死神を描き始めた。
「……気にしないで」
 井上が少し悲しそうな瞳で呟く。
「そうだぞ、森田。人には向き不向きがある。絵は、絵が上手い奴が描けばいいんだ。下手な奴が無理してがんばることは」
「ちょっと橋本君!」
 クラス委員の山野が橋本を黙らせた。



 死神は問題なく完成した。
 山野が描いたデザイン画のおかげもあって、なかなかの出来だった。イベント好きな橋本が率先して作った、段ボールにアルミホイルを巻いた大鎌も迫力があっていい感じだった。しかし、俺の心にはその大鎌で切られたような大きな傷跡を残すことになる。
 絵を描いて笑われることには慣れているが、哀れみを向けられる経験は初めてだ。このまま引き下がってしまっては悔しすぎる。そして、ちょうど良いことに近々写生大会がある。

 汚名を返上するチャンスだ。





「なぁ、隣いいか?」
「へ?」
 やや曇り気味の空の下、思いがけない俺の言葉に、無口な井上と並んで絵を描いていたクラス委員は素っ頓狂な声を出した。
「どうしたの?」
「絵を教えてくれ」
「へ?」
 写生大会の会場となった学校の近所の川辺で、思いがけない俺の依頼に、再び山野が素っ頓狂な声を出す。
「……汚名、返上?」
 井上がメガネを直しながら訪ねる。そうだ。と俺は応える。
「いいの? 橋本君たち向こうで遊んでるけど」
 山野が指をさす方向では、すっかり写生大会に飽きた橋本や数人の仲間が、教師が別の場所を見回りに行ったのを見計らって、走り回って遊んでいた。まだ写生大会は始まったばかりなんだが。
「いいんだ。今回はすごい絵を描いてみんなを驚かせたい。そこで、絵を教えてくれ。というか、脇で描いてるからアドバイスをくれ」
 山野も絵を描いているんだし、あまり邪魔をしても申し訳ない。それに、あくまで俺が自分で描いたということが重要だ。しかし、俺一人で描いても良い作品が出来上がるとも思えない。そこで、絵の上手い山野に時折アドバイスをもらいつつやっていうこうというわけだ。その旨を山野に伝えると、山野は快く承諾してくれた。
「……がんばって」
 かろうじて微笑んでいることが分かる表情で井上が言った。


 やっと下書きが終わり、ちらっと山野の絵に目をやると、川の色を灰色で塗っていた。
「なぁなぁ、今塗ってるそれ川だろ?」
 ん? と山野が顔を上げる。
「川は水色じゃないのか?」
「あぁ、そういうこと? ほら、よく見て。今日は曇り気味でしょ? 川は空の色を反射するから、晴れの日は水色でもいいかもしれないけど、今日は灰色で塗った方がいいの。……って、どうしたの?」
 目を限界まで見開いた俺を、心配そうに山野が覗き込む。目から鱗だ。俺は川だから水色だと固定観念に縛られていた。
「それにほら、川は波打ってるから所々光を反射して輝いているでしょ? 水がレンズになって川底が歪んで見えたり。……って、ど、どうしたの?」
 目と口を限界まで開いた俺を、不気味そうに山野が覗き込む。なんてことだ。川を描くというのは、そんなにも深いことだったのか。俺は絵を描くということを舐めていた。よし、すごく参考になった。俺も着色に入るか。
「あれ、どこ行くの?」
 水入れを持って歩きだした俺に、山野が声を掛ける。
「絵の具の水を入れに学校まで行ってくる」
「え? わざわざ学校まで? 汲んでくるの忘れた人は川の水入れちゃってるよ?」
 彼女は、水を汲みに片道5分の道のりに向かおうとする俺に、妥協案を提案してきた。
「川の水じゃ砂が入るかもしれないだろ? いつもの俺ならそれで良かったかもしれないが、今回はダメだ。行ってくる」
 そう。今回の俺は本気なんだ。


 水を汲んで戻ってくると、美術教師が戻ってきていた。さっきまで走り回っていた橋本達も、おとなしく絵を描いている。横目でそいつ等の描いている絵を覗き見してみたら、川を水色で塗っていた。フッ。今日の川は灰色なんだよ。素人が。
 橋本に至っては、キャンバスのほとんどを茶色と緑色で塗りつぶしていた。聞くと「土と草」だそうだ。やる気が無いにも程がある。まぁ、俺も去年までは似たようなものだったが。
「……おかえり」
 絵を描いている姿勢のまま、井上が俺の帰りを迎えてくれた。その隣で並んで描いていた山野が続ける。
「ホントに行ってきたんだ。すごいね。本気なんだね。良いと思うよ。森田君、がんばって!」
 クラス委員の激励に、おう。と返事をすると、俺はキャンバスに色を塗り始めた。



 翌日、俺は教室のいつもの席で朝のホームルームを待っていた。
 俺の渾身の作品は、まずまずの完成度だった。会心の出来とまでは言わないが、今まで俺が授業で描いてきたどの絵よりも満足のいく作品に仕上がった。写生大会の終わり際に、アドバイスをもらおうと山野に話掛けた時、彼女は俺の絵を見て一瞬驚愕の表情を浮かべていた。俺の本気の絵を見てびっくりしたのだろう。
 写生大会で描いた絵は、数日後に体育館に張り出される。みんなのリアクションが楽しみだ。
 そんなことを考えていると、担任と一緒に美術教師が教室に入ってきた。表情が険しい。
「みんな、ホームルームの前に、美術の先生からお話があるそうだ」
 担任に促され、美術教師が声を荒げる。
「昨日の写生大会だがな、何人かの者が提出した絵から、まるでやる気が感じられない! 今から名前を呼ぶ者は再提出だ!」
 すごい剣幕でそうまくし立てると、美術教師は生徒の名前を呼び始めた。
「秋本! 鈴木! 田辺!」
 あー、みんな橋本と一緒に走り回ってた奴らだ。普段俺がつるんでいる奴らでもあるが、あまりにも不真面目な姿勢が逆鱗に触れたのだろう。
 俺は、椅子の前の二本の足を浮かせ、不安定に椅子を揺らしながら、早く終わらないかなと考えていた。
「橋本! お前のは特にひどい! 何が『土と草の絵』だ! ふざけるのも程々にしろ!」
 あーぁ、橋本も呼ばれてら。そりゃぁ、あの絵じゃ仕方ないよな。
「それから森田! 以上だ!」
 ガターン!
 俺は頬杖を付いていた手から顔を滑らせ、豪快に椅子から転げ落ちた。すぐに起き上がり声を上げる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ先生。俺は今までに無いくらい真面目にやってましたよ?」
「何言ってるんだ森田! お前がフラフラ出歩いてたのを知ってるんだからな!」
 もしかして水を汲みに学校まで戻っていた時のことを言ってるのか? 俺が事情を説明しようとすると、美術教師に食ってかかる別の人物がいた。
「先生! それは違います! 森田君は川の水を使って砂が入ったりしないように、わざわざ学校まで水を汲みに戻ってたんです!」
 弁解をしたのは山野だった。クラス委員の正義感からか、本気だった俺の気持ちを汲んでくれたのか、俺の代わりにフォローをしてくれた。
「普段みんなから絵を笑われてるからって、すごく一生懸命だったんですよ!?」
 オーケー山野。その辺にしておいてくれ。庇ってくれるのは嬉しいが、笑いを堪えているクラスメイトの視線に耐えられない。
「……森田君は悪くないです」
 そうよね? 由美? と山野から同意を求められ、メガネを直しながら井上が続けた。クラス中が下を向いてプルプルしているこの状況でも、彼女は相変わらず無表情だ。
「何だ、そうだったのか。森田、済まなかったな」
 山野と井上の弁解に、美術教師はすんなり自分の非を認めた。俺の言葉は全く届かなかったのに。この差はどこから生まれるんだ。


 その後、美術教師の名前を呼ばれた俺以外のメンバーは職員室に連れて行かれ、いつものホームルームが始まった。担任の教師の気まずい表情が印象的だった。



 後日、全校生徒の描いた絵が体育館に張り出された。
 例年では、わざわざ他人の絵を見に行くような生徒は少ないのだが、今年は先日のホームルーム前の一件が噂になり、俺の絵を見に行く奴が結構な人数現れた。伝説の作品を一目見たいらしい。
 張り出された俺の絵を他の作品と見比べて見ると、雑に描かれている絵は、雑が故に線が勢い良くのびのびと引かれており、俺の絵は、丁寧に書いたのが裏目に出て、線が完全に死んでいる。美術教師はこの線の違いを見逃さなかったのだろう。流石と言えば流石だが、俺の心に癒えようのない傷を負わせたフォローが、美術の成績に「3」を付けただけというのは大人としてどうなんだろうと思う。教師という立場も難しいものなんだな。



 汚名返上をしようとして、逆に伝説を作ってしまうとは……。


 もう卒業も近い。在学中に再び汚名返上の機会はもう訪れないだろう。
 いつか、またチャンスに恵まれたらチャレンジしてみたい。


 そう、例えば、全世界に俺の絵を発表できるような時代になったときに。



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